
4月15日、
今日は森永博志の命日だ。
70年代後半から80年代前半、僕は友達とバリでアンティークの買い付けや現地の生地で作った洋服をデザインしては日本で販売していたんだ。もちろん波乗りもかねて、毎年何度もバリを訪れていた。そして、手に入れたアンティークや服が売れて、まとまったお金が入ると、また、旅に出た。行く先は決まってアイランドだった。暖かくて波さえあればどこでも良かったけれど、当時のバリにはそれらすべてがあった。東京では「ハリウッドランチマーケット」が扱ってくれたり、大阪ではアメリカ村が大流行りの時代で「ラハイナ」って言う知り合いのお店に持って行くとその場で現金で買ってくれた。
20代から30代はじめまで、そんな最高な生活を暫く続けていた。まだ本格的に写真をやろうかなとかは思って無かったんだ。
1979年のデンパサールの町
転機はたまたまバリに来てた編集者と再会したことによって訪れた。
その編集者「森永博志」は残念ながら2025年に亡くなってしまったのだけれど。
当時、僕は、バリで作っていた自分たちのブランドの服を現地の可愛い子達にモデルになってもらって広告のための写真を撮ってたんだ。そんな時に「マッケンジー」(僕達は彼をそう呼んでいた)が『ポパイ』と言う雑誌の仕事でバリに来ていた。同行していたカメラマンが仕事でニューヨークに行ってしまって、自分で写真を撮って記事を作るつもりだったらしいけれど、やっぱりカメラマンがいた方がいいってことで、僕のところに尋ねて来たっていう感じかな。その時はまさか昔一緒に仕事をした事があったなんて、お互い忘れていたんだね。

僕たちのブランド「ADUH 」。「アッダー!」=バリで “なんてこった“って驚いた時につい口から出る言葉
当時のクタビーチ周辺はまだ電気が通ってないところが多かったし、日本人観光客はサヌールがほとんどで、クタビーチにはあまりいなかったからすぐに会えたんだろう。確かその時、「君はカメラマンなんだってね、ローカルの人にカメラ持った日本人が居るって聞いて探して来たんだよ、今度雑誌の『ポパイ』でバリ特集やるから、写真を撮ってくれないかな?」って言われたんだ。会ったばかりの人間にいきなり雑誌の写真を担当させるなんて、マッケンジー的な直感が働いたんだと思う。それに僕達の作っていた服はバリではお祭りや飾りに使うラメ入りの生地を使ったボタンダウンのフロントジップみたいなデザインだったから、当時としてはかなりパンク的な感じで、感覚的にも彼なりに共感出来たんだろう。それで写真を撮るかわりに僕達の服を誌面に載せてもらうと言う条件で取材を始めたんだ。
ラメ入りシャツにアンティークのベルトをコーディネイトしたんだ
バティックの生地を使って、フロントジップ&ボタンダウンシャツ
取材に出かけようとなって、いきなり「マジックマッシュルームのお店に取材行こう!」とか言うんだ。「ポパイに載せたら訳の分からない若者がマッシュルーム食べてとんでもない事になるからやめた方がいいよ」って、流石にやめて貰ったけれど本気だったな。時代はカセットテープ全盛。クタにはありとあらゆる種類の海賊版コピーテープのお店があったから、ローリングストーンズが大好きだったマッケンジーは早速何個か買ってたね。ボブ・マーリーのテープも手に入れて、雑誌用に写真を撮った事は覚えている。いざ雑誌が発売されて、僕達の服を着たモデルの写真が巻頭ページに使われた時には本当に嬉しかった。
稲村ヶ崎の写真でのデビューが先だったけれど、それはサーフィン雑誌だったから、一般の雑誌デビューはこれが初めての仕事だったんだ。
本が出たあと、マッケンジーが僕に言った言葉を今でも思い出したりする。
「たいちゃん、僕の知り合いが原宿で凄いお店やっててさ、きっと彼ならタイちゃんの服を気に入って絶対に買ってくれるからオーダーとってくるよ!」って。でもね、当時はランチマーケットの垂水さんとの仕事がメインだったので、そのオファーを丁寧に断った。後で知った事だけど、その原宿でお店やってるという人は、マッケンジーが書いた小説『原宿ゴールドラッシュ』の主人公、山崎眞行さんだった。彼の手がけた「クリームソーダ」や「ピンクドラゴン」といえば、70年代から80年代の原宿の景色をつくった店といっても過言ではない。
とにかく人との出会いはいつもマジックをもたらすんだ。
そんなこんなでいつの間にか僕はサーフィンカメラマンとして専門誌で連載を担当したり、雑誌の表紙や巻頭ページを担当したり、広告の撮影やマガジンハウスの仕事をしたりと、なんとなく自分ではカメラマンと言う実感は無かったけれど、仕事に不自由はしていなかったと思う。ただ相変わらず波乗り中心の世界なので東京に事務所をなんて考えたこともなかったんだ。そんな時にまたしてもマッケンジーから連絡があって、「たいちゃん、島に行かない?」って言うんだ。「どこ?」って聞くと、「今度、雑誌『ブルータス』でさ、島特集なんだよ。たいちゃん島好きじゃん、一緒に行こうよ!」という話。もちろん二つ返事でOKしたんだ。
それで、また「どこの島?」って聞いたら、「フィリピンだよ! ほかの編集者達はさ、ハワイやリゾートだけど俺たちはそんな感じじゃ無いじゃん。もっと人知れずワクワクするところ、フィリピンにはいっぱいあると思うんだ」と、いかにもマッケンジーらしい答えが返ってきた。
僕はこれまで随分といろんな編集者達と取材して来たつもりだけど、マッケンジーだけは特別だった。なにしろ彼は、人と違った事にしか興味を持てないんだ。ある雑誌の仕事でどうしてもヒマラヤの高山にしか咲かないスノーロータスの記事を物にしようとしたけど、高山病で死にかけたとかね。編集者としてだけではなくファッション広告、FMラジオ「サウンドストリート」のパーソナリティや音楽関係の雑誌の編集長でもあったり、とにかく業界で有名だった。彼の手がけた音楽のイベントはいまだに語り草だ。
『SNEKEMAN SHOW 核シェルターブック』や、それこそあの当時の「ハッピーエンド」の映像制作、泉谷しげるやトム・ウェイツとの交流や吉田拓郎から矢沢永吉まであげればキリがない。マルチな才能の持ち主だった。
案の定、フィリピンでは反政府ゲリラが拠点にしていたミンダナオ島最西端、ボルネオ島に程近いサンボアンガに到着した途端、いきなり「ゲリラを取材しょう!」なんて言い出したから「自分達が人質になったら大変なことになるからからやめよう」と必死で止めたんだ。実際そこで日本人がゲリラに拉致されて、日本政府に身代金を要求した事件もあったしね。まあいつものマッケンジーだから驚かないけどさすがにその時はヤバイと思ったね。
ゲリラに対する政府側の民兵たちと撮影。僕のジーンズには、コルト45を無理やり突っ込まれて
それでも当時は誰も見向きもしなかったパラワン島に行けた事だけは、今となっては本当に最高な思い出だ。どこで調べたのか「ここの島には海に繋がっている洞窟があって昔、海賊が…」とか言ってたけれど、実際にそこにはちゃんと洞窟もあっし、恐る恐るカヌーで潜り込んでいくと、ランプに照らされたその岩肌には100年以上前の誰か、マッケンジー言うところの海賊の遺したサインが年号と共に刻まれていたのには本当に驚いた。けれどもっと驚いたのはコウモリの大群が壁一面にへばりついていたこと。そいつらの糞の匂いにやられて早々に洞窟から逃げ出したんだ。

後ろ姿の森永博志
一応、マニラから現地の人を案内人として雇ってはいたけれど、その彼に自分が日本から持って来たシャツを着せて、ファッションページみたいに田舎のマーケットで撮影もしたりしていたし、取材の仕事なんだか自分の仕事なんだかサッパリ分からない。でも毎回、出来上がった記事を見ると確かに一味違った物になるのだから、それはそれで流石だなぁといつも思っていた。
森永博志が持ってきたアロハはこの場所にピッタリだった
僕も時にはそんな撮影をする事もあるけど、大切なのは現場の雰囲気やその場のノリなんだよね。とにかくマッケンジーと一緒の仕事は本当に楽しかったな。
1600年代のスペイン統治時代の面影が色濃く残るサンボアンガの街並みが、夕暮れの太陽で染まる様子は、マッケンジーも記事の中で書いていたようにそれまで見たことのないほど幻想的だった。はるか昔、この街に生きた彼等も僕と同じ様にこのサンセットの中に佇み、時代の流れに身を任せていたんだろうと想像した。その後、あの景色が忘れられずに、ガールフレンドとサーフボード持参で再び訪れてしまった事は今となっては懐かしい思い出だ。
それから暫くして、「たいちゃん!種子島のロケットを取材しに行こうよ!」って連絡があったのは彼が連載している機内誌の仕事だった。多分、その時すでに彼の頭の中には、僕の波乗り仲間がロケット打ち上げの瞬間に波乗りしている絵があったんだろう。

ロケットが今まさに飛び出した瞬間に、その手前では何人かのサーファーがサーフィンしている。その写真こそ今でも僕の好きな作品の一つになっている。それもマッケンジーのおかげだったのだと改めて振り返る。
いよいよ島に入ると、各社の取材陣には撮影用の特別席が用意されていた。そのありがたい招待を僕達は辞退して早速ロケハンに繰り出した。島のなかでロケットの発射の瞬間とサーフィンが出来る海を同時にファインダーに納めることができる場所は限られる。僕達は何ヶ所か探して、結局ここだと思ったポイントを見つけて島のサーフィン仲間に連絡した。
当時はロケット打ち上げがイベント的に盛り上がっていたので、ほかにもたくさん取材陣が来ていた。でも本部としては結果的にこんな取材になるなんて想像もしていなかったと思う。「波乗り」に関しては本部には伝えず、侵入禁止の指定をされた半径の外で写真を撮る了解を貰い、ちゃんと打ち上げ何十秒前には連絡が入るようにと専用電話を持たされて、僕達は見晴らしの良い場所でいよいよ打ち上げの時を待っていた。マッケンジーは自分の出番は終わったって感じだったけれど、僕は「ロケット打ち上げの瞬間に果たして誰かテイクオフ出来るのだろうか?」なんて結構緊張していた。撮り直しなんてありえないからね。とにかく運を天に任して待つしか無い。
連絡が入りいよいよ発射までの秒読みが始まった、僕はもう何も考えず何もせず、ただファインダーの中の景色だけに集中していたその瞬間、あっという間にロケットは轟音と共に飛び出していった。その時は誰かが波乗りしていたのをファインダーの中に確かに見ていたはずだけれど、フィルムだったから、現像してみるまでは確認のしようがない。本当に撮れているのかは、不安だった。フィルムだった時代にはそれが当たり前の事だったけれども、毎回のようにそんな気持ちになっていたんだ。マッケンジーにとって、当時の日本のマス・メディアがロケット発射の瞬間を同じような写真で一斉に報じる事に疑問を感じていたんだろうな。違った目線で捉えることの大切さを、僕も同じ思いでいた事でこの写真が撮れたと思う。
実は僕もすっかり忘れていたけど2015年にマッケンジーが送ってくれた彼の著書「あの路地をうろついているときに夢見たことは、ほぼ叶えている」のなかに僕達が初めて出会った場面の事が書いてあったんだ。そこでは未だお互い20代の頃、とあるCMでモデルとして共演していた事が書いてあった。なんとなく記憶にはあったけれど一緒にいた人達は誰だったかまでは覚えてはいなかった。正直、すっかり忘れていたんだね。巡り巡ってあの時バリで出会わなければ、メジャー雑誌のデビューもロケットの写真も無かったかも知れないとは思うけれども、時が経っても会える人には会えるんだよ。それが本当の出会いなんだと思う。

あの頃、それこそ世界の果てのような所で森永博志と見た景色は、僕にとって決して色褪せない特別な思い出であり、マッケンジーその人なのである。
<森永博志のオフィシャルサイト>の中に僕たちの出会いのストーリーもあった
http://www.morinaga-hiroshi.com/profile/profile107.html
追記
<森永博志のオフィシャルサイト>の中のバリでの出会いに関しては、記憶違いなのかも知れないけれど、ちょっとフィクション入ってるのかな。バリでの最初は、マッケンジーと一緒にいたカメラマンのミウラケンジが、ニューヨークに行ってしまい、ポパイのバリ特集の写真を撮るカメラマンがいなかったから、日本人のカメラマンが居るって聞いて会いにきたとのことだったんだ。当時は日本人が少なかったから、誰が何処に居るかすぐわかったんだよね。そんなわけで僕は当時のバリをマッケンジーと取材することになった。当時のマガジンハウスは取材費が潤沢だったのでなんでもやり放題で、今じゃ考えられないほど自由だった。面白い取材出来たし、最高な時代を共有した仲間だった。彼のお陰で後のハワイ特集にも繋がっていくことになったしね。
こんなに早く逝くなんて残念で悲しいけど、今となっては楽しい思い出だけが残ってる。
彼のいい写真撮ったんだけどなぁ、、、随分探したけど、見つからなかった。。。
2026/4/15

