
毎日のように海抜0メーターでサーフィンに明け暮れていた僕に、ハリウッドランチマーケットのボスこと、垂水源さんが、ネパールにトレッキングに行かないかと誘ってくれたのは1986年のことだった。それまで山といえば、近所の裏山か高校のときに登った八ヶ岳くらいなので、一度は海抜何千メーターの世界を覗いてみたい気持ちと源さんと旅ができるという期待で、二つ返事で行くことした。

11月のネパール。首都、カトマンズに到着したのは日が暮れてからだった。翌日は、朝霧の中を町外れの広場に行き、ガイドとポーターを雇うことから始まる。広場の遠く向こうにはこれから登るヒマラヤの山陵。サーフィンで味わう雄大さとはまったく違う自然が広がっていた。
行程は、3日登って、2日で下るトレッキングルートだ。登り口に行く乗り合いバスには、乗客も荷物も鶏の籠もぎゅうぎゅうに積み込まれる。バスを降り、最初は里山を歩く感じだと甘くみていた。昔の田舎の風景、藁葺きの小屋や干し大根、真っ赤な唐辛子、のどかな雰囲気を抜けると、だんだん険しくなってきて、「ああ、これから始まるんだ」と思い、杖を持って来なかったことをちょっと後悔。1日歩き続けた道を振り返ると、遠く景色が霞む。ふと足下を見るとポーターのおじさんのひとりは裸足だ。素足の裏が靴のソールのように固くなっている。その足でテントや食料など、重い荷物を背負って歩く。自分の軟弱さを思い知らされた。その晩のキャンプでの夕食はレンズ豆のスープだったが、さほど寒くもない場所だったのに、あのあたたかな美味しさは忘れられない。翌日からどんどん道が険しくなり、近くに見える谷を挟んだ向こうの山に行くには、谷底まで下り、また登るの繰り返し。川があると吊り橋を渡る。高所恐怖症の僕はとにかく怖かったけれども、遥か遠くのアンナプルナの山々が、だんだんと近くに見えてくるのが慰めだった。

2日目の晩、ロッジで眠ろうと思ったら、どこからか笛の音が聞こえる。その音に導かれ、ランプが灯る部屋から暗闇に出ると、東屋のシルエットの中で誰かが笛を吹いている。ただ何も音がしない山の世界。真っ暗な空に星灯り。その笛の音だけが澄んだ空気に綺麗な糸を引くような、幻想的な時間だった。
3日目、道はさらに激しくなる。生水は飲んではいけないというけれど、ヒマラヤだからきれいだろうと、僕たちも歯を磨いたりした。それがあとでとんでもないことになる。その日たどり着いた小さなロッジ。夜はかなり冷え込むからと、暖炉のようなところで、女将がネパールの地酒、ロキシーをやかんで火にかけて飲ませてくれた。それがまた、すごく美味しい。たんまり飲んで、外のトイレに行くと、アンナプルナの山々が月明かりに照らされ、間近に浮かび上がる。ほんとうに神様がいても不思議じゃないという光景に、寒さも忘れて見入ってしまった。

次の日、高度が増すにつれて寒さも厳しくなり、みぞれ混じりの雨が降ってきた。装備も充分ではなく、これ以上は無理だということで、立ち寄った小さな村から帰路につくことにした。帰りは景色を楽しむ余裕がでてきたが、途中、どうも腹の具合が悪いと思う。痛みは尋常ではなく、歯を磨いた水が原因だったと気づいた時は、後の祭りだった。5分置きに「下し」ながら、山を「下って」いった。

麓の村に近づくと行き交う人も増え、細い山道では交わすときに挨拶のするのが日常。みんなにっこりと笑顔を投げる。しばらくすると、向こうからきた少女の笑顔があまりにも自然で可愛かったので、僕も源さんも思わず振り返ってしまった。この子の笑顔をどうしても撮りたいと思ったら、源さんも同じことを思ったのか、自分のつけていたバンダナをふっと彼女の首にかけた。ほんとうに一瞬の出来事だった。いつもカメラを持ってはいるけれど、素晴らしい景色は撮るより見るほうが僕にとっては大事だから、カメラが荷物だなと思うことはあっても、たくさん撮った記憶がない。とにかくこの少女の笑顔だけは特別だった。今この殺伐とした世の中だけれど、だからこそ、こういう笑顔が必要じゃないのかな、と思う。今はもう孫がいる歳になっているかもしれないけれど、きっと同じような顔で笑っているんだろうな。

僕たちが忘れてしまった笑顔。SMILE。いつも笑顔でいたいと、この写真を見る度に思う。だから、いまだにハリウッドランチマーケットが広告にこの写真を使っているのかも知れない。源さんの使う標語。「旅は人生の道標(みちしるべ)」。「Life i a Journey Towards the Guiding Light」。この写真を使ってもらっていることに感謝している。

垂水源さん
ハリウッドランチマーケットのボスこと、垂水源さん。出会ってもう50年が経つ。最初の店は千駄ヶ谷にあって、まだ従業員も2、3人しかいない頃、僕の妹が店番として務めていたので僕も度々訪ねる様になった。それ以前にアメリカで古着の仕事をしていた源さんは、帰国後に店を始めたわけだけれど、当時インセンスやターコイズ、ネイティブアメリカンのアクセサリーなどを扱っている店なんて僕が知っている限りなかったと思う。今で言うところのヘッドショップだね。カッコいい古着の店なんてなかったあの時代にアロハ着てリーバイスの501を穿いていた源さんや僕たちサーファーは少数民族だったのだ。横須賀は米軍のベースがあるから、周辺のお店でアメリカンカジュアルを高校生の僕らでも手にいれることが出来たんだ。そんな格好で東京に遊びに行っていた僕らのことを源さんは面白がってくれたのかもしれない。30代から40代にかけて、バリの生地でシャツを作って輸入していた時、源さんからオーダーをもらってハリウッドランチマーケットでも扱ってくることになった。80年代のころだ。トラッドファッションのVANの出身で、60年代、サンフランシスコに渡り、ネオンサインの光る安宿に泊まり、フラワーチルドレン 、ヒッピーになってしまった源さん。僕のファッション、生き方にすごく影響を与えた人物だ。最初に会った頃、古着のダンガリーシャツにリーバイスの501のジーンズ穿いて、ロン毛にパナマハット、アフガンハウンドの首にバンダナ巻いて連れて歩いてた源さんは、今思い出しても、誰よりも格好良かった。
